建築エッセー:遥かなる記憶への旅立ち―5
《世紀末爛熟都市ウィーンの面影を求めて》

淵上 正幸(建築ジャーナリスト)

「夜のしじまに響くハリー・ライムの足音。それを追うホリィ・マーティンス。そして寒々しい冬枯れの並木道を、アンナが振り返りもせずに去っていく有名なラスト・シーン。名優オーソン・ウェルズ、ジョセフ・コットン、アリタ・ヴァリが演ずる映画「第三の男」は、4国統治下のウィーンの夜の張り詰めた雰囲気を、見事なモノトーンの映像美で見せてくれた。古都ウィーンは今でも街灯に鈍く光る石畳から、ふとハリーの足音が聞こえてくるような、そんな気持ちにさせてくれる蠱惑的な都市である。」

これは拙著『ヨーロッパ建築案内』第2巻(TOTO出版)における、コープ・ヒンメルブラウ設計の「ルーフトップ・リモデリング」に書いた文章の冒頭である。キャロル・リード監督によるこの映画は、世界の映画史上屈指の名作として知られている。自分自身もこの映画にはぞっこんで、ウィーンが好きになった理由である。実際に建築フリークにとって、ウィーンは都市的・建築的な魅力に溢れている。

この街は小さいながらも近代建築から現代建築まで連続的な作品が鑑賞可能で、魅力的な20世紀のメルクマール的作品が楽しめる。その中心をなすのが、「装飾は罪悪である」というアフォリズムを提言したアドルフ・ロースの存在だった。ウィーンには「ロース・ハウス(1)」や「アメリカン・バー(2)」を初め、「シュタイナー邸」「シュトッスル邸」などの住宅群があるが、僕のお気に入りはまたの呼び名を「ロース・バー」ともいう「アメリカン・バー」だ。ウィーンには何回か行ったが、行きつけとなっているのがコープ・ヒンメルブラウ設計の「ライス・バー(3)」とロースの「アメリカン・バー」だ。この2件を梯子することから僕のウィーンの夜は始まると言っても過言ではない。

アドルフ・ロース以前に隆盛を極めた世紀末ウィーンのユーゲントシュティール(アール・ヌーヴォー)では、代表作として名高いオットー・ワグナー設計の「シュタインホーフ教会(7)」「ウィーン郵便貯金局(6)」「カールスプラッツ駅」「マジョリカハウス(5)」をはじめ、ヨーゼフ・マリア・オルブリッヒの「オルブリッヒ自邸」「セゼッション(4)」, ヨーゼフ・ホフマンの「ブーカーズドルフ・サナトリウム」など、粋を凝らした圧巻の作品が多い。ホフマンはブリュッセルに世界的に有名な「ストックレー邸」を建てている。

20世紀になると、哲学者のルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインが唯一設計した「ストンボロー邸(8)」が完成。装飾を廃したストイックなデザインで話題になった。またカール・エーン設計の「カール・マルクス・ホーフ(9)」は長さ1km以上もある集合住宅で特異な存在が人気だ。その後ウィーンでは、現代ウィーン建築界の巨匠ハンス・ホラインの「レッティ蝋燭店(10)」「シューリン宝石店1(11)」「オーストリア旅行代理店本店」「ハース・ハウス(12)」を筆頭に、コープ・ヒンメルブラウの「ライス・バー」「ルーフトップ・リモデリング(13)」、ギュンター・ドメニクの「ウィーン中央銀行(14)」、フンデルトワッサーの「フンデルトワッサー・ハウス(15)」「クンストハウス」など曲者揃いの作品に満ちている。

221世紀になって、ウィーンの古いガスタンクをジャン・ヌーヴェル(仏)やコープ・ヒンメルブラウが改修した「ガソメータ集合住宅(16)」は観光スポットになった。さらにドミニク・ペロー(仏)の「DCタワー1」、再びジャン・ヌーヴェルが「ソフィテル・ウィーン(17)」を設計した。このホテルは傑作で、ヌーヴェルのニュー・アイディア嗜好が具現化されていて面白い。エントランス・ロビーやレストラン階の天井は、全面カラフルな抽象絵画のようなものが描かれた特異なデザインでビックリ!また客室にはあれやこれやの仕掛けがあり、使いこなせるまで時間がかかるというユニークなホテルだ。

またウィーンには古くから多くの美術館があるが、現代の美術館というとミュージアム・クオーターというエリアがあり、そこにはオルトナー兄弟の設計による「レオポルド美術館(18)」や「ウィーン現代美術館」「ウィーン建築センター」「デザイン・フォーラム」「クンストハレ・ウィーン」などがあり、ウィーン現代アートのメッカとなっている。また最近では「ウィーン経済大学」に、ザハ・ハディドをはじめ、日本の阿部仁史アトリエなどが参加したキャンパスが完成している。
(文・写真:淵上正幸)

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淵上 正幸

淵上 正幸 Masayuki Fuchigami
建築ジャーナリスト&エディター

東京外国語大学フランス語学科卒業。2018年日本建築学会文化賞受賞。
海外建築家や海外建築機関などとの密接な情報交換により、海外建築関係の雑誌や書籍の企画・編集・出版をはじめ、イベント、建築家のコーディネーション、海外取材、海外建築ツアーの講師などを多数手掛ける。
主著に『世界の建築家51人-思想と作品』(彰国社)、『ヨーロッパ建築案内1~3巻』(TOTO出版)、『もっと知りたい建築家』(TOTO出版)、『アメリカ建築案内1~2巻』(TOTO出版)、『世界の建築家51人:コンセプトと作品』(ADP)、『建築家をめざして:アーキテクト訪問記』(日刊建設通信新聞社)、『アーキテクト・スケッチ・ワークス1~3巻』(グラフィック社)、『建築手帳2020』(青幻舎)などがある。